生死の境をさ迷う事故を繰り返す少年ルイ。数奇な人生に隠された真実とは『ルイの9番目の人生』

出典: Amazon

《基本情報》

原題:The 9th Life of Louis Drax

出演エイダン・ロングワース(少年ルイ)、サラ・ガドン(母親ナタリー)、ジェイミー・ドーナン(パスカル医師)、オリバー・プラット

監督:アレクサンドル・アジャ 脚本:マックス・ミンゲラ

製作国:カナダ・イギリス合作 製作年:2016年 108

あらすじ

天使のように愛くるしい少年ルイ・ドラックスの人生は、まるで何かに呪われているようだった。出生からわずか8年間で生死の境をさまよう大事故を8度経験してきたルイは、9歳の誕生日に両親と一緒に海辺のピクニックに出かけ、断崖絶壁から転落するという9度目の悪夢に見舞われてしまったのだ。どうしてルイは、これほどまでに不運な星の下に生まれたのか。病院のベッドで眠り続ける彼の周囲で、奇妙な出来事が相次ぐのはなぜなのか。やがて、この小さな命を救おうと尽力する担当医パスカルは、あまりにも多くの謎をまとうルイの秘密を解き明かそうとするのだが……。引用元:「ルイの9番目の人生」公式サイト

「事故多発少年」というミステリアスな掴みで一気に引き込みながらも、ただの奇妙な話では終わらない映画です。変わり者の少年の視点から見た世界の不思議な雰囲気、美しすぎる母親。サスペンスとしても秀逸で、謎の核心に迫るにつれ、浮き彫りになっていく、登場人物たちの深層心理──それが忌むべき心の闇であっても、憐れみを誘うような繊細さで慎重にすくい上げられています。映画や小説って、こういう言葉じゃ説明しきれない感情を表現するためにあるんだ、と改めて痛感しました。(原作はリズ・ジェンセンの『ルイの九番目の命』というベストセラー小説)

男を破滅させる女

オペラや古典に登場する「ファム・ファタール(=運命の女)」とは、本来「悪女」という意味に限らない。

ここでいう「運命」とは男の運命のことだ。赤い糸で結ばれた運命の人、と言えば聞こえはいいけれど、「ファム・ファタール」という言葉を使った場合、温かい愛で結ばれた幸せな絆というより、逃れられない魅力に束縛されるようなイメージがある。

出会った瞬間恋に落ち、目をそらそうにも、釘づけになってそらせない。花から花へと飛び回っていたミツバチも、その特別な蜜の味を知ったら、もうほかの花へと飛び立つ気がなくなる。

その女のために、男の運命は決定づけられてしまう──それがファム・ファタール。

魔性の魅力によって、自由を失った者は、たいがい破滅へと転がっていく。しかもその不幸さえ喜んで引き受ける。

そういう意味では『ロミオとジュリエット』のジュリエットも、『白鳥の湖』のオデット姫も、宿命的な恋で相手の人生を狂わせ、死へと導く「運命の女」だ。でも、ジュリエットもロミオの死を悲しんで自殺しているし、オデット姫も王子と心中している。異性に翻弄されて人生を狂わせているのは女の方も同じだから、決して、男を手玉にとって自分だけ高笑いしている魔女みたいなのをファム・ファタールと呼ぶわけではないのだ。

この映画の主人公ルイの母親、ナタリーは、まさにファム・ファタールです。

美しいナタリーのまわりには、いつも大勢の男が群がってきます。女たちは嫉妬の眼差しを向けている。ナタリー自身も、男性たちから優しくされ、チヤホヤされることを求めていて、しおらしさを装いながらも故意に色気を振りまいている。

けれどこの映画は、「群がっている男たちは、本当に彼女を愛しているわけではない」、と残酷に告げています。

息子のルイは、シビアに大人たちの現実を見抜いていて「男はみんなママとセックスしたがる」「先生はママとセックスしたいんでしょう?」とバッサリ言う。

昏睡状態のルイの夢の中に出てくる怪物が語った「コウモリの話」は切なかった。実はこの怪物はルイの義父のピーターなのですが、その話はこうです。

“あるところに、3羽のコウモリがいた。オスが1羽、メスが2羽。片方はいつも笑っていて、もう片方はいつも泣いていた。オスは笑っている方のメスを愛していた。…でも、泣いている方のメスにも同情していた。自分がそばにいてやったら、泣き止むんじゃないかと思って…”

笑ってるメスはピーターの前妻で、泣いている方は再婚した妻ナタリーです。普通、かわいそうな女を、男性が優しさで包んでやったら、愛だと解釈するところですが、ここでは「愛」と「同情」をはっきり分けているのです。

ナタリーは、自覚しているようには見えませんが、本能的には何か直感しているのか、ピーターが前妻にばったり出くわしたエピソードに過剰に反応します。

ルイが生まれた時、ルイの実父がすでにいなくなっていたことも、そこに「愛に似ているけど違う何か」があったことを、を暗示しているかのようです。

だから、ナタリーはまわりからチヤホヤされても、つねにそれでは足りなくて、さらにまわりの気を引く行動に走るのかもしれません。大海原でポツンと遭難し、渇きにかられて手当たり次第に塩水を飲んでは、さらに渇くような、…地獄

だれよりも美人でモテモテなのに、なんでこんなことになるんでしょう?

私の好きな本に、こんな言葉があります。

”誰かとの関係に何かが足りないと思う時は、虫眼鏡ではなく、鏡を見るといい。足りないものとは、あなたである”

「あの人に私は愛されてるんだろうか?」と悩んでいる人が、「私はあの人を本当に愛しているんだろうか?」と真剣に考えることは稀です。質問したらきっと「当たり前でしょう!好きだから愛されたいと思うんじゃない!」と怒られます。

でも、本当にそうでしょうか?

ナタリーは明らかに、夫のことも子供のことも愛していません。

「愛されたい」という渇望感があるだけです。

それは、パスカル医師の性欲や、ビーターの同情とも違うけど、やっぱり「愛と似ているけど違う何か」なのです。

「愛」と「愛と似ているけど違う何か」を見分けるにはどうしたらいいんでしょう??


昔、路上の易占い師に、こう言われたことがあります。

「あんたは男を破滅させる女だよ」

正確に言えば、男を沈める女、だったかもしれません。夜の雑踏が楽しげに通り過ぎていく新宿の駅前でのこと。小さな卓と行灯を挟んで、そのおばさんの前に腰を下ろすやいないや、開口一番にそう言われたのです。

「あんたは仕事しか頭にないってツラだね。夫のことをないがしろにして、ヤルこともヤラセてないから、別れることになったんじゃない? 夫婦ってのは男が上アゴで女が下アゴ、女があわせていかないと…」

ただでさえササクレだった気分だったところに、細木数子風の説教と的外れな指摘をくらった私は、声を震わせながら反論しました。

「私は専業主婦ををしていたし、今だってお金になる仕事なんてありませんよ。ヤらせてくれなかったのは旦那の方です。それがあったら、多少不満があっても、我慢して大目に見られていたかもしれないのに…! 釣った魚に餌をやらないって、このことです。こんな目にあうなんてあんまりですよ!!」

ふてぶてしい新宿の母は、それを聞いて「プッ」と失笑した。


リアルなファム・ファタールなんて、そんなモンです。

神秘の霧に包まれたミステリアスな女性も、霧を吹き飛ばせば、ウンコもするし、人目につかないところで鼻クソぐらいほじります。カッコいいあの人も、家に帰れば毛玉だらけのスウェットを着て、ネットでエロ動画を探しているかもしれない。

そんなところまで愛してると言えたなら、あなたはその人を本当に愛しています。

そんな風に想いあえる相手がいたら、ロマンチックじゃなくても、幸せでしょうね。