インド西部、乾燥地帯にある都市ジャイプルは、「ピンク・シティ」と呼ばれています。ピンクがかった土壁の建物が多い、ということがその名の由来で、ガイドブックに載るのはバラ色の宮殿。
宝石の産地としても有名で、観光地を行けば、砂埃だらけの道路端に敷き布を広げ、本物かと疑いたくなるようなキラキラしたガラス玉のようなブツを、山盛りにして売っているのを見かけます。
ただし、駅前からいきなりアラビアンナイトようなピンクの街が出現するわけじゃありません。駅から旧市街までは結構離れいて、その間、小汚くて雑多で、こちらも今時のインドらしい風景を、通り抜けなければなりません。
そこに着いたのは朝だったので、街はまだ寝ぼけまなこで、商店のシャッターはどこも閉まっていました。背中を丸めた野良犬も、野良牛も、なにもかもが砂まみれで痩せこけている。妙にガランとした道路脇の一角には、マットレスのない鉄の骨組みだけのベッドが10数台並んでいて、何人かがまだ眠っていました。夜露もしのげない、あそこは宿なのか? あの人たちは、毎日あそこで寝起きして住んでいるんだろうか?
そんな光景を横目に、私はくたくたの『地球の歩き方』を取り出して、列車の中で目星をつけた宿の方向を地図で確認しました。早く宿について、このクソ重いバックパックをおろしたい…。
その時でした、そいつが現れたのは。
「ハロー! ウェアー ユー ゴー?」
ものすごいカタコト英語で話しかけてきたのは、サイクル・リクシャーでした。バイクのオート・リクシャーではなく、自転車を漕いで進むやつです。まっ黒い肌のおじいちゃんで、長袖長ズボンの白い服を着ていました。
「ニード リクシャー?」
「いらないよ!」私は英語で答え、足を速めました。きっと遠目からでも、道に迷ってるのが丸見えだったんでしょう。私は脇目もふらず、道なんて知っているという顔で、どんどん進みました。
「どこに行くの?」とリクシャーマン。
「〇〇ホテルだよ」
「そりゃ遠すぎるよ!リクシャーに乗っていかなきゃ」
「いらないって言ってんでしょ」
私はあえて口調を荒くして、彼と目すら合わさず、前を向いたまま速足をつづけました。
本当は駅で地図を見た時から、オート・リクシャーに乗ったほうが良さそうなのはわかっていました。でも、リクシャーやタクシーは、日本人とみるとふっかけてくるので値段交渉がめんどくさく、まわり道したり、最悪行きたくもない宿に連れていかれることもあるので、意地でも使わないようにしていたのです。彼らは自分が紹介料をもらえる宿に客を連れて行こうとする。
「乗った方がいいよ!それに〇〇ホテルは、そんなにいいホテルじゃない。もっといいホテルを紹介できる」やっぱりそういう魂胆か。
「ホテルは変えないよ。もう予約してあるから、無理だね」予約なんてしてませんでしたが、そう言いました。
リクシャーマンは苦い顔をし、「それじゃあ、まず〇〇ホテルに行ってあげるから、そこが本当にいいホテルかどうか見て確認するといいよ…」
しつこいなあ。「〇〇ホテルには歩いて行くから、あっち行ってよ!」
そうやって振り切ろうとしているうちに、とうとう歩きで目的のホテルまで着いてしまいました。
〇〇ホテルは写真通り綺麗で、豪華ではなくても手作り感のあるエキゾチックな内装がいい感じのホテルでした。西洋人のバックパッカーが多そうです。
私は勝ち誇った表情でリクシャーに別れを告げ、カウンターで部屋をとろうとしました。
「悪いけど、今満室なんだよ」
「……」
ホテルの前ではリクシャーマンが、まだこちらの様子をうかがっています。
私は仕方なく後戻りし、忌ま忌ましいくらい重いバックパックをドカッと座席に投げ込みました。もうこんな重いものを背負いながら、歩いて宿探しなんてうんざりです。
「気が変わった…。あなたがおすすめだっていうホテルまで、案内してよ」
リクシャーマンはニヤリと笑い、塗装も剥げたちっぽけな銀色のリクシャーを、えっちらおっちらと、こぎはじめました。
リクシャーマンが推薦した宿は、「ボンベイ・ホテル」という、旧市街の入り口にある交通の便がいい宿でした。大きめの建物ですが、共同スペースを兼ねた食堂に人影はなく、たまに見かけてもインド人。旅情を誘うような飾り気はなく、どちらかというと、海外からの旅行者というより、国内の人がビジネスホテルとして使いそうな宿でした。
おしゃれじゃなくても、不潔ではないし、なにより観光地から離れたさっきのホテルより便利で、他の旅行者がいないから静かに過ごせるのはいいことでした。
私が納得して部屋を決めると、リクシャーマンはこの後の予定を聞いてきました。特に決めてはいないけど、ガイドブックにある観光地は見ていくつもりだ、と答えると、「ジャイプルは大きい街だし、全部の名所をさっきみたいに歩いてまわるのは大変だ」と言い、こう提案してきました。
「リクシャーを1日200ルピーでチャーターするなら、あなたを乗せて市内の名所をひと通りまわる」
移動するたびにリクシャーマンと値段交渉するのは、面倒なんだろ?と。
たしかに、ジャイプルは思っていたより大きな都市のようでした。まだ1日は始まったばかりでしたが、そうこうしているうちにすっかり眠りから覚めた街は、人ごみと排ガスと騒音でごった返し、焼けつくような日差しが降り注いでいます。
200ルピーという価格が適正なのかどうかさっぱりわかりませんでしたが、日本円に換算すると、わずか300円ほど。
それで彼は1日じゅう私を乗せて自転車をこいでくれるというのです!
普段5000円や1万円の服を平気で買うような人間が──
彼の1日分の労働力を、300円から150円に値切ったところで、一体何になるっていうんでしょう??
宿に満足していたし、何人ものリクシャーマンと交渉するがめんどくさかった私は、多少ぼったくられていたとしてもまあいいか、という気がしてきました。歩くよりリクシャーのが楽なのはわかったし。
そうしてこのリクシャーマン、マイヌディンさんは、私お抱えリクシャーマンになったのでした。
この街を知りつくしているというマイヌディンさんが、朝食の場所に選んだのは、LMBという高級ベジタリアン・レストランでした。中は冷房が寒いほどきいていて、制服姿のボーイが日本語を少し使って、丁寧に接客してくれる。まっ白なテーブルクロスの上に、どんどん料理が運ばれてきます。
私は普段、安い食堂のサモサやチョウメン(インド風のやきそば)などで食事を済ませてしまうので、こんなにきちんとした食事はひさしぶりでした。
マイ・リクシャーマンの紹介してくれた店は、本当にいい店だ!
私はキンキンに冷房のきいた室内で、マハラジャのような贅沢を堪能しながら、ふと店の外を見やりました。店の一部はメインストリートに面してガラス張りになっているので、路肩にリクシャーを停めて、炎天下で私の帰りを待っているマイヌディンさんの姿が見えました。
彼は通りを眺めてこちらに気づいていませんでしたが、私は腹がはちきれそうなほど運ばれてくる料理を頬張りながら、、
彼の炭のようにまっ黒に日焼けした肌を、そこに深く刻まれたシワと、痩せた手足を、じっと眺めていたのです……。
私はレジ横にあったペットボトルのレモンジュースを買って店を出ました。
「ディス イズ フォー ユー」
暑くて喉が渇いたでしょう? そんなようなことを言ったか言わなかったか記憶は定かではありませんが、マイヌディンさんは予想もしていなかった顔をして、冷えたジュースを受け取りました。
高級レストランでは146ルピーの会計に200ルピー払い、残りはチップとして置いてきましたが、日本語を話すウェイターは、もっと多くを期待していたのに物足りないという表情だった。
次の目的地に向けて、マイヌディンさんがまたリクシャーをこぎだします。たらふく食べて体力充分な若い私は、座席でふんぞり返って、それを見てる。そもそも彼は朝食に何を食ったんだろう? 私は自分のやっていることに違和感を覚えて、かすかにざわついた気分になりましたが、変な同情をして途中で降りても、全然彼のためにならないでしょう。この人が一番喜ぶことがあるとしたら、毎日食いっぱぐれのない仕事にありついて、少し多めの報酬をもらえることだ。
そんなことを考えながら、サイクル・リクシャーのゆっくりとしたペースで、ピンク・シティーとは言い難い雑然とした市街地を進むうち、リクシャーマンが肩にかけていたハンカチのような白い布が、風で飛んでいきました。彼は気づいていません。
「ストップ! ストップ!」
私はリクシャーを急停止させると、降りて、後方に吹き飛ばされた布を拾って戻ってきました。
「はい、これ」
するとマイヌディンさんは、今日ここまでで見せたことがないような複雑な表情を浮かべて、布を受け取りました。愛想笑いをしてお礼を言うのも忘れてしまったような顔でした。
インドには不可触賎民というのがいて、その人が触ったものは汚れているので、他のカーストの人は決して触らない、という厳然たる身分差別があります。彼のカーストが何なのかは知りませんが、日本人の私にはどうでもいいことです。
最初に向かったジャイプルの名所「ジャンタル・マンタル」は、太古の天文学施設で、星の運行を観測するための巨大な石の建造物が集まっています。科学も占星術も分かれていない時代、マハラジャたちはこのような器具で、宇宙のことだけでなく未来まで知ろうとした。そんなロマン膨らむ貴重な史跡ですが、日本語のオーディオガイドがなく、ちょうど雲がでてきて日時計の影も見えなくなってしまったから、どういう仕組みの器具なんだかさっぱりわかりませんでした。たてつづけに、その隣にある「シティー・パレス」も見学。
ほとんどの観光スポットは10時オープン、17時クローズ。この時間内にすべてをまわろうというのだから忙しい。
ちょっとリクシャーを停めた隙にも、物乞いや、商売目当ての人間が、「ハロー、ジャパン」「コンニチワ」と、わらわら寄ってくる。マイヌディンさんは険しい顔で、猫を蹴散らすようにリクシャーをこぎはじめると、
「日本語で話しかけてくるのは、全部ビジネスだ。道で声をかけられても相手にしないように!」と親身に忠告してくれる。「マイ インフォメーション イズ コレクト!」
ところで、これからどこに向かうの?と、たずねたら、お互いうまく聞きとれなくてよくわからず、
「ノー プロブレム! ユー アンド ミー ボース グッド!」と、俺に任せろ!な笑顔。
彼も私もえらく単純な英語しか使えないうえ、言ってることの3分の1くらいはわからないのです。
名前のわからないお寺に行き、入ろうとしたら「今は閉館時間だ」と断られる。マイヌディンさんは、何だかよくわからないけどちょっと用があるようなことを言うので、仕方なく30分くらいこの辺で自由時間にして待ち合わせることに。
去り際に「店には入るな。みんな金儲けだ」と、念を押されました。
とは言っても、寺の近くには客引きのうっとうしいみやげ物屋ぐらいしかありません。私もそんな店に入る気にはならず、露店でザクロを買って、リクシャーで待つことにしました。
広場をサルたちが横切り、寄ってきた野良牛が、私の落としたザクロの皮を食べる。ちょうどその広場の壁は立ちションスペースになっているらしく、何人かが用を足していきました。
「あんた、そこで何してる?」通りすがりのおっさんが一人、聞いてきました。
何してるんでしょう?
「リクシャーマンを待ってる」
「あんたがリクシャーの留守番してんのか」おっさんは、ハハッと鼻で笑って去っていきました。
生ゴミと小便の臭いの中で、ザクロを半分くらい食べた頃、マイヌディンさんが戻ってきました。頭にイスラム教徒の小さな帽子をかぶっています。それから礼拝の仕草で説明されて、ようやく、礼拝に行っていたのだとわかったのでした。
そのあとは動物園に行き、博物館にも行く予定でしたが、動物園でゆっくりしすぎて閉館時間になってしまったので、早めの夕飯にしよう、ということになりました。
動物園はインド人の観光客だらけで、紹介されたホテルもインド人向き、と、ディープなチョイスばかりでしたが、マイヌディンさんおすすめの「チープ アンド グッド」な店も、案内してもらわなければとても行けないような場所でした。
騒がしいロータリーに向かって、完全に開け放たれた店内の壁は、まっ黒な油がこびりつき、貧乏な肉体労働者がたむろしていて、明らかに旅行者が入るような店じゃない…!
何が出てくるのか、ここでもなんだかよくわからないまま席に着くと、タンドーリで焼いたフカフカのバターナンと、じっくり煮込んだチキンカレーが出てきました。
すごく、おいしい!!
料理の写真を撮ったついでにマイヌディンさんにもカメラを向けると、すぐに硬い顔になってしまうけど、私が喜んだ笑顔になると、嬉しそうな笑顔を返してくれる。
ニッとしたまま何本か抜けた歯をさして、硬いものは食べられないんだよ、と付けあわせの玉ねぎをくれる。宿に帰って、ロビーのソファーで一息つくと、「自分はもう、55を超えてる」と冗談めかして笑っていました。(日本で見る55よりはるかに老け込んで、70くらいに見えました)
約束通り、日給の200ルピーを払い、「いいドライバーだから」と10ルピー追加。明日は市外をまわるバスツアーに参加することにし、空き時間をどうするかなど相談してから、
「明日は半日だから120ルピーでどうかな?」と、こちらから切り出すと、彼は金の話なんか、と首を振り「100ルピーでいい。夜中あんまり遠くまで歩いちゃダメだからね」と言って帰っていきました。
夕飯のカレーは成り行きで私のおごりになっていましたが、私は最後までそのことには一切触れませんでした。
金の話なんか…。
そばにいたボンベイ・ホテルの雑用夫のおじいさんが、じっと私の目を見て、丁寧に両手をあわせ、「ナマステ」「とても良い」と言ってくる。私はそのとき、「ナマステ」はインドの「こんにちは」だけど、本来は「あなたを敬う」という意味があるのだ、ということを思い出しました。本当にそういう意味で言ったのかは、わからないけど。
時刻はまだ夕方。
チャイをもらって、屋上から遠くの岩山を眺めていると、さっきのおじいさんがやってきて、「あれがタイガー・フォート」「あれがアンベール城」と教えてくれました。頭も髭も半分ぐらいが白髪で、ちりちりした巻き毛でした。目はつぶらで、歳に似合わないほど澄んでいる。
「モンキー・テンプルにはもう行ったかい? ぜひ行った方がいい。いい所だから」
その日は早朝から動きっぱなしだったので、部屋に帰ると、眠ったことにも気づかないまま寝てしまいました。
翌朝、パジャマも外出着も区別のつかないような格好で階下に降りていくと、カウンターにいるオーナーらしき貫禄のあるおじさんが言いました。
「あなたのリクシャーマンが待ってるよ」外には門付けでマイ・リクシャーが。
「ハロー! グッドスリープ?」
2ヶ月以上1人旅をつづけてきて、単独行動が当たり前でしたから、まったく見知らぬ土地で誰かが私のために待っている、というのは、ちょっとこそばゆい気分でした。
私は旅のあいだずっと、胸を押しつぶすスポーツブラをつけ、体型がわからなくなる男物のTシャツを着て、指には偽の結婚指輪をはめていました。髪は短く、トリートメントなどしないので、寝癖がついたようなボサッとした感じです。
9:30に出発して、政府観光局で11: 30からのツアーを予約。それまでの時間は、マイヌディンさんおすすめのビリヤーニ屋台(インド風ピラフです。1皿15ルピー!ここもインド人労働者しか使わないような店だけど、おいしかった)で朝食を食べたり、人気のラッシー屋で濃厚なラッシーを飲んだりして過ごしました。
マイヌディンさんの家は、ビリヤーニ屋の近くだといいます。奥さんは51で、息子は2人。家賃は週に30ルピーと激安です。
有名な映画館の前を通り過ぎ、ツアーの後ホテルで18時に待ち合わせして、映画でも観ようと約束しました。
ツアーの集合場所でマイ・リクシャーと別れ、しばらくしてやってきたのは、バスではなくジープでした。参加者はアメリカの白人男2人とカップル1組。インドールから来たというサリー姿の太ったおばさん。それに、ガイドの青年が一人つきました。
コースは、
1. 博物館
2. ジャンタル・マンタル(前日とかぶった!)
3. みやげ物屋
4. アンベール城
5. ビルニー寺院
博物館ではガイドの青年が、いろいろ説明していましたが、白人たちは気のないときは、愛想笑いもお世辞の反応も返さず、まるで魂の抜けたような顔をする。私は少し疲れ気味だったので、集団の後ろの方からおとなしくついていきました。一番元気で楽しんでいたのは、インド人の太ったマダムです。
ジャンタル・マンタルでは、国内旅行のインド人一家から「一緒に写真を撮ってくれ」と頼まれる。日本人を見るのはそんなに珍しいのかい? 青年ガイドは私を捕まえ「何でそんなこと頼むかわかるかい?君が綺麗だからさ」と囁く──日本ももっとインド化するべきですね。ヴィトンのバックや手料理を用意するのは大変でも、笑顔と言葉はいくらプレゼントしてもお金も手間もかからないし、効果は絶大です!
みやげ物屋ではサリーを試着して、ひたいに飾りまでつけてもらったけれど、何も買わずに逃亡。一番乗りでジープに戻り、ほかの参加者を待っていると、例のインド人のマダムがホクホク顔で戻ってきました。
「何かいいもの買えましたか?」
おばさんの顔は満月のようにコロコロしていて、何か話しかけるとすぐに幸せそうなニコニコ顔になる。彼女は素朴なキーホルダーを3つ取り出して、
「どれか、好きなのを一つあげる」と言いました。
ミラーの散りばめられたピンクのひし形と、ゾウと、クジャク。
私は黄色いクジャクをもらい、なにかお返しにあげられるものはないか探して、財布に残っていたタイの硬貨をあげました。
「なんで持っているの?」彼女は不思議そうに受け取り、
私はアジア全体がのった折りたたみ地図を取り出して、「私は日本を出て、香港から、ここを通って、ここから、こうして…」この地に行き着いたのです、と指差しながら説明しました。
「まあ!」
インドから一度も出たことがないマダムは、急にそのなんの変哲もない硬貨が輝きだしたかのように、熱心に眺めまわし、無邪気にはしゃぎました。
かわいいマダムは、どこに停まっても、みやげ物屋の前で立ち止まっては、嬉しそうに買い物袋をぶら下げて帰ってくる。
革靴の店では、138歳まで生きたという、この店の先代の写真が飾ってあった──本当かよ!?
そして、ビルニー寺院では、鳥のフンが私の脳天を直撃しました。
ツアーが全部終わって、ジープを降りたのは17時40分。18時ちょうどにホテルに着き、ロビーで待っていると、マイヌディンさんが15分遅刻して申し訳なさそうに言い訳しながらやってきました。
イスラム教徒の礼拝は、1日に5回もあります。1回目は5:30、2回目は13:45、3回目は17:30、4回目は19:30、最後の5回目は21時ちょうど。早朝は15分で、それ以外は30分。これを街中に設けられた祈祷所で毎日欠かさずやるのです。考えてみたら、3回目が17:30で30分祈っていたら、18時ちょうどにホテルに着かないのは当然です。
それに私の方もボケっと待っている間に済ましておいた方がよかった用事があるのを思い出しました。──日本に電話をかけなきゃならない。
映画を観た後だと国際電話できる電話ブースが閉まってしまう。
「I call my husband」と説明すると、マイヌディンさんは「ヒューヒュー」という顔をしました。
私は「魔除け」のために偽の結婚指輪をして、既婚者のフリをしていましたが、指輪をくれた(正確には護身用に手頃なのを私が買わせた)のは本物の婚約者です。そもそも今回の旅行は、直前に彼からプロポーズされ、「結婚してからだと独身のように自由な旅をするのは難しくなるだろうから、今のうちに行きたい所に行っておきたい」と言ってはじめた旅だったのです。
そして、声を聞きたいというよりは、連絡しないと相手は心配するから、という理由で、なるべく連絡できる所では連絡するようにしていたのです。──正直に白状すると、それを負担に感じる場面は多々あったのですが。一度は、電話もインターネットも通じていない僻地の村で、唯一衛星電話が通っているレストランの番号を彼が調べあげ、非常に高圧的な態度で私を出せと要求し、女将から皮肉を言われたことがありました……。
用事を済ませて、出発しましたが、結局私たちは映画館には行きませんでした。
ジャイプルの後はバラナシに行くつもりだと話したら、今のうちに電車のチケットを予約した方がいいということになり、駅に向かったのです。
彼の忠告通り、格安のチケットはすでに満席でウェイティングのみ。念のためバスも確認してみましたが、一番よさそうなのは2Aクラスの寝台列車でした。値段は、1160ルピー。マイヌディンさんには信じられない高額だったようで「それはきっとコンパートメントの値段で、使ってない寝台の分の値段も含まれているから高いのに違いない」と、眉間にシワを寄せて勝手に納得していました。
「お腹空いたから、なにか食べに行こうよ」
雑事を済ませているうちに、もう夜9時近くなってしまった。
「これから9時に礼拝しなきゃならないから、9時半に待ちあわせよう。それとも、それどころじゃないくらい腹減ってる?」
「まあ、大丈夫だけど」
30分後、また昨夜と同じターリー屋で、今度はフライドチキンカレーを食べました。
「今日は朝食しか食べてないから、お腹空いちゃったよ~」
マイヌディンさんは驚いて、
「朝食だけ?」
「うん」
「なんで?」
「ツアーにランチが入ってなかったから」
がっつきながら答える私の前で、マイヌディンさんは悲しそうな顔をしました。
ハンカチでしきりに目頭を押さえている。
「疲れた?」
「朝5時半に起きたからね」と、首を横にふる。彼の皿はもう空だ。
「宿は近くだし、もし眠いなら、先に帰っても……」
マイヌディンさんは眠いわけではなく、泣いているのでした。不思議だけど、私はそれを意外には感じませんでした。
一度ジャイプルを発てば、またこの街を訪れたとしても、流しのリクシャーのマイヌディンさんとまた会うことは難しいだろう。そう考えたら、私も寂しく思ったからです。
「I enjoyed this town, because you.
I want to see you again」
と、私は言いました。
また会いましょう、と言って会わなかった人の、なんと多いことか。それは、心ない社交辞令の言いあいと、私の怠慢によるものだということを、私は知っている。
私はベトナムでミャオ族のガイドの女の子からもらってから、ずっと右腕につけていた刺繍入りのバンドを外し、
「これ、あげる」と手渡しました。
彼はとてつもなく高価なものを受け取ったような顔をして突き返そうとしたけれど、
「持っていて欲しいから」と押し戻しました。
ホテルのロビーで今日の日給の100ルピーを払い、明日の確認をする。すると、マイヌディンさんがまたバンドを取り出し、やはり受け取るのをためらって返そうとする。
私は手を振ってつき返し、「シュブラトリ!シュブラトリ!(おやすみ)」と言って、部屋への階段を駆け上りました。
階下でマイヌディンさんが、ちっぽけなバンドを両手に持って、悲しげに立ちすくんでいるのが見えた。
「I give you!」と私は叫びました。
部屋に戻って、しばらくしてからノックがありました。ホテルのスタッフが立っていて、
「リクシャーマン need you」と言う。
何事かと下に降りてみると、マイヌディンさんがカウンターでオーナーと何か話してる。それも取り乱して懇願するような様子で。
オーナーによると、「明日のチェックアウトタイムは8:00だけど、特別に一泊の半額分の150ルピーで半日部屋を使ってもいい」という。「これは特別で、彼が君はとてもいい人だと推薦して、朝早い時間だと眠いだろうから、どうかゆっくりさせてやって欲しい、と頼んだからだ」
チェックアウトの時刻が朝早くて、「明日は7:30に待ち合わせよう」となった時、私はいつも朝寝坊だから、その時間じゃ眠いよ、と軽い気持ちで言ったのだ。
「これでゆっくり眠れるよ。明日の待ち合わせはお昼にしよう」
バンドのお礼に何かできることはないかと、彼なりに考えた結果なのだろう。
──でも、そのバンドはそんなに大したものじゃないんだよ。あなたが思っているほど、いい人でもないんだよ…。
「せっかくだけど、必要ないよ。明日は荷物を預けて朝から出かけるつもりだったし、大切な時間を無駄にしたくない」
眠るのは毎日できるけど、ジャイプルでマイヌディンさんと会えるのは明日だけなのだ。
宿のオーナーが間を取り持った。
「朝から、15:40(列車の発車時刻)までじゃ、だいぶ時間があるよ。彼は貧しいリクシャーで、その間ずっと自転車をこいでいるのは大変だ。どこかで休憩を入れて、休ませてあげなきゃ」
──たしかに。
「わかりました」
マイヌディンさんもニコリとうなずく。
「でも、待ちあわせは、やっぱり朝にしましょう。モンキー・テンプルに行くって約束だからね」
翌朝、昨日と同じビリヤーニ屋で朝食を食べてから、(マイヌディンさんが気を利かせて私の分を大盛りで買ってきたけど、ちょっと量が多すぎた)、モンキー・テンプルへ。
ガイドブックになかったから、地元の人だけが知っている下町の寺院のような所かと想像したけど、実際は街外れの岩山の上にある大掛かりなものでした。
山に近づくにつれ上り坂になってくる道を、しばらく2人でリクシャーを押しながら歩き、日本でいう鳥居のような門をくぐったところでリクシャーを停めて、片道30分くらいの山道をゆっくり歩きました。
石で舗装された参道からは、ジャイプルの街がよく見渡せる。途中買った豆を、山のサルに手渡しであげました。
「自分はもう歳だから引退を考えているけど、生活するためにはやめるわけにはいかん」
歩きながら、
「たくさんの旅行者を乗せてきた。ここに一緒にきたのは、だいぶ前のイギリス人の紳士と、君だけだ」と言う。
「君の旦那は何の仕事をしてるんだ?」
「アラビア語の通訳」
「それって月にどれくらい稼ぐの?」
「うーん、だいたい3000ドルくらいかな…。日本じゃ何でもかんでも、とても高いからね。こっちでは私は大金持ちだけど、日本では普通だよ」
「私の生活はとても安上がりだ」
「1日にどれくらい必要なの?」
「う~ん…200ルピーぐらいかな」
それから結婚してどのくらいになるのかと聞かれたので、私は初めから結婚を前提につきあいはじめてからの日数で数えて、「半年」だと答えました。
「Only!6 month!」
「Yes, very hot」
マイヌディンさんはそれから「Only 6 month」と何回かつぶやいては、冷やかすように笑った。
モンキー・テンプルには沐浴のためのプールがあり、山あいの寺院はとても静かで、どことなく聖地の雰囲気が漂っていました。
サル専用のプールもあり、サルたちが飛び込みを楽しんでいるところは、にぎやかな小学校のプールみたいに見え、彼も私も笑った。
マイヌディンさんは、プールに滝のように水が流れ落ちているところを指さし、
「10年前、あの高みから飛び込んだんだ」と誇らしげに言いました。
10年前だと、45歳くらいということになる。結構な高さだ!
寺院から出ようとしたとき、出口にいた男が急に、150ルピー出せ、と言ってきました。男の指す壁には、ビデオカメラ150ルピー、スチールカメラ50ルピーと書いてある。
すると、私が反応するより先に、マイヌディンさんがヒンドゥー語で猛烈に食ってかかって、私には「払う必要はない!」と言いました。
男はすぐに「50ルピーでいい」と撤回しました。壁にはたしかに、50ルピーとあるし、もちろん私はカメラを持っています。マイヌディンさんはそれでも引かずに、だんだんケンカのような様相になってきたので、
「Please, stop I can pay」と止めに入りましたが、「Don’t pay!」の一点張り。
結局、列車の時間もあるし、いつまでもそこで粘るわけにはいかないので30ルピー渡して出てきました。
「50ルピーって決まってるなら、払ってもよかったのに」
「あいつらは入るときには何も言ってこなかった。足元を見てやってるんだ。言われた通りに払うことはない」と、お怒りのご様子。
帰りの参道で、
ネパールで例のhusbandと会うことを話していたので、「ネパールで旦那に会ったら、そのまま日本に帰るの?」と聞かれました。
「いったん、インドに戻ってタージマハルくらいは見て帰るつもり」
「ジャイプルには戻ってこないの?」
「ラジャスターン(ジャイプルも含む、インドとパキスタンの国境に近い砂漠地帯)に戻ってきたいし、いいところだから行こうって誘ってるんだけど、今のところ「遠すぎる」って言ってる」
そう答えながら、私はもやもやとした気分になってきました。どうしても!と我を張れば、ジャイプルに来れないことはないかもしれない。でも Only 6 month なその時は、なんとなく気が進まない、という以上にうまく自分の気持ちの整理がつきませんでした。
問題のHusband氏はそのころ、私といる時はそんなに悪い人ではなかったのですが、私の母に尊大な態度をとって犬猿の仲になり、ラオスの村のレストランに命令口調の電話をした前科があります。初めて彼の実家に行った時は、義父がテーブルに足をのせて私に足の裏を向けたまま話してきましたが、家の外に出てから私が激怒するまで、何の違和感も感じていなかったことも。たまに、タクシードライバーやデパートの売り子に見下した視線を送ることも、引っかかりました…。
自分で選んだ人のことを悪く解釈したくない、という気持ちが私の判断力を鈍らせていない今──言葉でズバッと原因を究明するなら、こういうことです──土足で踏み荒らされたくない。ビジネスライクなホテルのオーナーに紹介するなら、どうなってもいいし何の問題もない。でも、サイクル・リクシャーに彼と乗るのは、いいアイデアだとは思えない。乗るなら私1人だけがいい。そして、もしマイヌディンさんなしのジャイプルなら、わざわざ再訪する意味を感じない。
「旦那さんの気分次第か…。次の旅行は、何ヶ月先?それとも1年先?」
「わからない」
それから、
「もし子供ができたら、こんな風に長い旅行をするのは難しいでしょう。たぶん、これが最後の長い旅行になると思う」
マイヌディンさんは、みなまで言わんでも分かる、という風にうなずいた。
リクシャーに戻ると、
「この辺には100軒近く宝石の店がある。よくない店も多いけど、ちゃんとした商売をしている店を2軒知ってる。興味があったら、のぞいてみるかい?」そう、ジャイプルは、評判と違ってそれほどピンクなシティーではありませんでしたが、宝石の街でもあったのです。
この辺りにある石屋は、どこもラグジュアリーな高級宝石店ではなく、小さな卸問屋の雰囲気です。中でもそこは、押し売りのようにゴリ押ししてくることはなく、丁寧に説明してくれる感じのいい店でした。
インド産の石は、スタールビーとタイガーアイ、それから──
みやげ物屋で見かけた時から、ひときわ気になっていた石がありました。うっすら透明な乳白色で、ぼんやりと青みがかって光る丸っこい石。ですが、みやげ物屋で見た物よりも、ここにあるのは、はるかに澄んだ透明で、輝きも強いものでした。
スタールビーを勧めてくる店主に、
「この石は何ですか?」と、たずねました。
「それはムーンストーンだよ」
ムーンストーンなら知っているけど、日本で見たことあるやつはもっと白濁して、こんなに鮮やかには光らないものだった。
「日本で出回ってるのは、レモンムーンストーンだよ」
店主はいくつか品質の違うものを見せてくれました。私は、ベストクオリティーだというものの中から、本当に、格別に美しい石を2つ選びました。
1つは扇型をして、光が当たると全体的にかなり明るく光る石。もう1つは涙型で、もう一方よりも少し青みがかって淡く、わずかな角度の違いで色がまったく変わって見える石でした。
私が店を出て、石を買ったと知ると、マイヌディンさんはただ目の保養に寄っただけで、まさか本当に石を買うとは思ってなかったようでした。
心配そうに値段を聞いてきましたが、言っても怒らなかったので、たぶん適正価格だったんでしょう。石をペンダントに加工する工賃も含めて、総額3900ルピー。マイヌディンさんにとっては、目ん玉の飛び出るような高い衝動買い。
「グッド トレード?」
「イエス。ワン フォー ミー。ワン フォー マイ マザー」
それを聞いて、彼は聞き取りにくい英語で何かつぶやきました、「6 years marriage, go mother」そう言ったように聞こえましたが、そうだとしても意味がわかりませんでした。わからないことはしょっちゅうだったので、私はたぶん「結婚してもお母さんにちゃんと会いに行きなさい」と言ってるのかな、と聞き流してしまいました。
ペンダントの加工と列車の発車時刻を待つ、中途半端な短い時間。適当に街を流しました。目ぼしい観光地は見尽くしてしまったし、目的地はありません。リクシャーマンが客を連れて行けばマージンをもらえそうな宿も冷やかしました。行く場所なんてただの口実で、どこでもよかったのです。
フレッシュジュースのスタンドで、私のおごりで一番高いマンゴージュースを買えるのに、彼は自分の分は一番安いバナナジュースしか頼まない。
ペンダントを受け取って、駅に向かうあいだ、私はリクシャーのハンドルに巻きつけられた、私の刺繍バンドを見つめていました。
駅の構内にはリクシャーマンは入れないルールがあるらしく、マイヌディンさんは駅の手前に来たところで、「ここでお別れだ」と告げました。
私は日給200ルピーと、「夕食に」と40ルピーを渡しました。いつもみたいにあのカレー屋さんで食べるか、たまには奥さんと一緒もいいし、家賃を払うのに使うのもいい。
マイヌディンさんの差し出した手と握手して、私はホームへと入っていきました。
それから、インドらしく定刻よりかなり遅れてやって来た列車の中で、先ほどのムーンストーンを長々と眺めていました。
日記を書いて、次の街へ、次の街へ。車窓の外には平坦な荒野が広がり、窓を開ければ砂漠の風が、とめどなく髪をなびかせる。
「6 years marriage, go mother」の意味は、いまだに正確にはわかりません。本当にそう言ったのかすらわからない。けれど私は後になって、その時思ったのとは、もしかしたら違う意味だったんじゃないかと、思うようになりました。
「(今はまだ結婚6ヶ月目だけど)、6年も結婚生活すれば、君の方が母親になってるよ」そう言っていたのかもしれない。そこには「君が言った通り、これが最後かもしれない」もし何年か後に戻ってきたとしても、「その時のあなたは、今のあなたとは違ってしまっているだろうね」という気持ちがあったのかもしれない。
これは深読みすぎるかもしれませんが、あの時の私は、良くも悪くも単純だったので、結婚については「好きな人と一緒にいて幸せになれないはずがない。ずっと一緒にいたかったら、いればいいじゃんっ」ぐらいにしか考えていなかったのです。
それから、いろいろなことがありました。
私は帰国して、例の彼と約束通り結婚し、すぐに妊娠して、毎日家事に追われるようになりました。彼はなかなかの高給取りですが、1年の3分の2ぐらいは家にいて、税理士試験の勉強をするというので、私の生活は、朝と昼と夜と3回料理しては3回皿を洗い、近所のスーパーに買い物に行っては掃除洗濯をする、小さな輪の中をぐるぐると回るものになりました。
赤ん坊が生まれると夜泣きで起こされ、その子が昼寝をしている隙に誰にも文句を言わないような食事を用意し、目を覚ますとまた、やたらと泣きつづける赤ん坊を抱えながら、文字通り、狭い部屋の中をぐるぐる回りました。
そのあいだ、あのムーンストーンの片方は母のいる実家にあり、もう片方は小さな木の宝石箱の中にしまったきり、本棚においてありました。
私の旅の思い出も、いつしか、ホコリをかぶった宝石箱のようになっていました。まるで前世の記憶のようです。今は死後の世界か、そうでなければ、このまま死ぬまでつづく長い余生を送っている気分。
台所ばかりが灼熱になる茹だるような夏、彼がなんの相談もなく今年の試験を受けなかったことがわかり、それがバレても何の後ろめたさもなく、いつも机に座っているのは勉強ではなくて掲示板を読んでいるのだということがわかってしまった頃のこと、
あるとき私は、宝石箱を開けてみました。
中には安物のアクセサリーと一緒に、涙型のムーンストーンのペンダントが入っていました。──あの日と変わらない輝きで。透明なしずくのような石の表面に、不思議な青い光をたたえて……
おとといの晩何を食べたのか思い出せなくても、あの日のことは、昨日のことよりもはっきりと思い出せる。
蘇ってくるのは、砂漠に吹く風。夜行列車の寝台で、まだ見ぬ街に期待を寄せて、通り過ぎる景色を、無心で眺めてた。世界は限りなく広く、なんの不安もなかった。あの頃の気持ち。
気がつくと、私は泣き出してしまい、涙が止まりませんでした。
私は何を失ってしまったんだろう。
今そこに、すっかり満足しきって幸せそうに寝ている人がいる。最愛なはずの我が子の天使の寝顔がある。作るつもりで作った家庭がある。
なのになぜ私は泣くのか?
子供が3ヶ月になった頃、
私は子供を抱っこ紐で抱き、いつもスーパーに買い物に行くときに持つママバックを持って、「DVDを返してくる」と言って、家を出ました。それから隣駅のレンタル屋でDVDを返却し、それきり。家に帰りませんでした。
ここではもうこれ以上細かいことは語りませんが、
私はもう、あてどなくぐるぐる回ってはいません。
余生ではなく、人生を生きている。
ムーンストーンのペンダントを眺めていると、さまざまな光景や出来事が脳裏をよぎります。そして、ここにはいない人たちや、遠い世界と、つながっているような気がするのです。