傷つかずに愛する方法って?フランスらしい型破りな恋愛関係『愉楽への手ほどき』

出典: IMDb フランス版のパッケージ(日本版よりこちらの方が内容に合っています)

《基本情報》

原題:Que o Diabo Nos Carregue
出演:
ファビエンヌ・バーブ イザベル・プリム、 アンナ・シガレビッチ ファブリス・ドゥビル ジャン=クリストフ・ブベ

監督:ジャン=クロード・ブリソー

製作国:フランス 製作年:2018年 102分

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あらすじ

40歳の優雅な女性カミーユは、偶然忘れ物のスマホを拾う。すぐに持ち主の若い女性スージーから着信があり、スマホを返すが。その中にスージーが自慰行為をする動画がいくつも入っているのを見てしまった後だった。

性をテーマにアートを製作していたカミーユは、スージーの性の奔放さに興味を持ち、2人はベッドをともにする。そこに、カミーユのガールフレンドのクララが帰ってくるが、彼女は嫉妬するどころかおもしろがってそこに加わる。こうして、奇妙にも3人で仲良く共寝している所に、さらにスージーに執着する男オリヴィエがやってきて──。

出典: Amazon 日本版のパッケージ。こっちのが目立つんだろうけど…。

日本版はポルノのようなパッケージで紛らわしいですが💧、実際には耽美的な美少女の裸体などはあまり出てこないので、要注意です。レンタル屋では「エロティック」にジャンル分けされていました。

ですが正確に分けるなら、フランス映画らしく、型にはまらない愛の形を模索した、ミニシアター系の人間ドラマ、といった方がいい内容です。

男と女がくっついて結婚=正しい恋愛、なんて、だれが決めたの? 相手が同性でも異性でも、みんな好き同士なら3人一緒にベッドに入ったっていいんじゃない?

──観客の性に対する偏狭な先入観を、いきなり突き崩すようなシーンからはじまり、

あとは、傷ついた人々が、おたがいの温もりに包まれつつ、ゆっくりと花開いて立ち直っていく物語になっています。

決して派手な話ではないですが、「セックスは汚らわしいもの、罪悪感のあるもの、奪ったり奪われたりして傷つくもの」──観ると、そんな価値観を覆されます。

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愛が苦しめるのではない。「私のもの」という感覚が苦しめる

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この映画では、世間一般では「モラルに反している」とされる、さまざまな性愛の形が登場します。

まず主人公の女性三人がバイセクシャルで、女同士、三人で交わります。

1人は、自分の快楽のために相手を使い捨てにして、自由にセックスを楽しんでいるかのような奔放な娘、スージー。もう1人は、度重なる性暴力の末に心の壊れてしまった芸術家、カミーユ。そして、そんな2人を家に迎え入れているのは、惜しげない愛情で「自分を分け与える」不思議な女性、クララ。

それから、カミーユが心を病む原因となったトラウマ──インテリで上流階級の両親たちが、白昼の草原で乱交に興じていたという話や、彼女が高級娼婦だった頃に目撃した残虐な性の饗宴──も異様な性の形の一つです。

ただし、ここで伝えている「愉楽への手ほどき」とは、

飢えた獣が互いの肉を喰らいあうような、単なる無節操な乱交のことではありません。

この話をとても特別なものにしているのは、思いのままに無償の愛を与える女性、クララの存在がとても大きいです。

クララのおかげで回復に向かいつつあったカミーユは、スージーを含めた自分たち三人のセックスを、神々しい芸術作品へと昇華させます。

そして、作品を目の当たりにしたスージーは、

カミーユのしていることと比べたら、私のしていることは「汚い場所で2分で終わる下劣な行為」。自分は虚言癖で、恋人が山ほどいるように言ったけど、本当は誰のことも愛していないし愛されていない、と自己嫌悪と嫉妬に陥ってしまいます。

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同居人の中の唯一の男性、トントンの言葉も、とても深い教えに富んでいます。(Hできないほどの高齢なので、女性たちの自由すぎる性生活に巻き込まれないで済んでます)

トントンはヨガの瞑想に没頭していて、まるで仙人のような存在ですが、思い悩んでいる若いスージーに、こんなことを言いいます。

苦しみの原因は、『私』と『私のもの』という感覚

──つまり、自我(エゴ)執着ですね。

『自我』は…

「今日はうまくいったけど、明日も同じようにうまくやれるだろうか?この仕事は嫌いだ、私はみんなよりも劣っている、本当にこのままでいいんだろうか」など、絶えず考えつづけるもの。

『執着』は『所有欲』

あの人から愛されるのは私だけだ、あの人は私のものだ、財産も地位も名誉も絶対に手放したくない、失うのは怖いし、許せない、といった気持ち。

この二つさえなければ、人生の悩みのほとんどは消えてしまうでしょう。(インド哲学ではよく語られる教えです)

このことは、恋愛の悩みに絞ったときでも、言えることです。

ある本では、「私のもの」という感覚から離れた愛を、こんな言葉で表現しています。

傷つくのなら、それは愛ではない”──『Love ability』

もしあなたが、「愛は傷つくもの。幸せな時もあれば苦しい時もあるもの」、、、と考えているなら、目からウロコが落ちるような言葉です。

たとえば、浮気されて傷ついたのなら、あなたを傷つけたのは「愛」ではなくて「裏切り」です。相手に嫌われるのではないかと、不安にさいなまれているとしたら、それは愛」ではなく「猜疑心」です。好きな人が自分以外の異性と親しくしていたとき、あなたを不快にさせるのは「嫉妬。相手に気を使いすぎて疲れているなら、過度な「犠牲」を払っているサインです。

もし、愛しあうと自由を失うのではないかと心配しているなら、問題は「愛」ではなく、相手からの「束縛」と、自分自身の「執着」そのものではないでしょうか。どれも相手が「私のもの」でなくなることを恐れるから起こる反応です。

ほかにも──喪失感、幻滅…、辛く苦しい気持ちには、ちゃんとそれぞれの名前がついています。

そういう「痛み」をすべて、取り除いて行ったとき、最後に残るもの。

それが、愛です。

すべての痛みをふるい落とし、

相手は「私のもの」だ、という感覚なしに、

ただ愛したいから、愛する人と、慈しみあう喜び。

それこそ最高の「愉楽」だとは思いませんか?

クララの愛のあり方は、まさしくそんな喜びと安らぎに満ちています。

「私のもの」だ、というエゴと執着をふるい落とすのは、ただ犠牲的な献身をするという意味ではないのは、クララがはっきり自己主張していることからもわかります。

本当に幸せで奔放な性とは、決して自分や相手を傷つけるようなものではないと、教えてくれます。

タイトル通り、「愉楽への手ほどき」となる一本です。