白人達に囲まれた黒人の言い知れぬ恐怖『ゲット・アウト』脚本賞受賞の衝撃スリラー

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《基本情報》

原題:Get Out

出演:ダニエル・カルーヤ、アリソン・ウィリアムズ、ブラッドリー・ウィットフォード、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズキャサリン・キーナー

監督・脚本:ジョーダン・ピール

製作国:アメリカ 製作年:2017年 104分

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あらすじ

NYで活躍する黒人の若手写真家クリスは、同棲中の白人の彼女ローズの両親に会うため、彼女の実家を訪ねる。そこは人里離れた美しい邸宅。自分が黒人であるために、トラブルが起こらないか心配していたクリスだったが、彼女の両親からは大歓迎を受ける。

しかし、クリスは屋敷にやってきた時から、そこで働く黒人の使用人の存在にかすかな違和感を覚えていた。明日は偶然にも、一家が恒例で開いている大集会があるという。富裕層の白人たちはみな、クリスに好意的な態度をとるが、妙な居心地の悪さは増す一方だ。そんななか、ようやく来客の中に黒人の青年を見つけたクリスは、ホッとして声をかける。だが、青年には黒人同士なら当たり前のやりとりが、なぜか通じない。

違和感を感じてスマホでこっそり写真を撮ると、それまで微笑んでいた青年の表情が一変、「出て行け!」と、暴れ出す。クリスは不吉な予感にかられて、NYに戻ろうとするが──。

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素晴らしく気立てのいい美人な彼女。裕福な白人の両親に歓迎される黒人の彼氏。そんな恵まれた状況にありながら、一家や使用人・来客たちの態度に、妙な違和感が何度も見え隠れします。何かが気持ち悪いのに、その気持ち悪さの正体がよくわからないまま、何なんだ?と思っているうちに、どんどん見入ってしまいます。

人種問題をテーマにした心理的なサスペンスなのかな、と思いきや、後半になるにつれ、予想外に過激なホラーになっていきます。異なる人種の間に横たわるものを鋭い洞察で描きつつ、純粋にサイコ・スリラーとしても見応えたっぷりの作品です。(アカデミー賞、脚本賞受賞

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明らかな人種差別から、巧妙に隠された差別に変わっただけ?

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もしも、日本人の娘が、彼氏が外国人だということを一切知らせないまま、いきなり黒人の彼氏を実家に連れてきたら──ほんの一瞬でも戸惑わずに歓迎できる親はいるでしょうか?

または、同じ外国人でも、その彼氏が、

金髪に青い目の王子様のような容貌の白人青年だったら?

はたして、前者の時と感じることは同じでしょうか?

主人公の彼女ローズの両親は、上記のようなシチュエーションにも関わらず、まるでクリスの黒い肌の色なんて全然目に入らなかったかのように、両手をあげて大歓迎します。

本当に、全然目に入らなかったかのように、一瞬の戸惑いもなし、です

ローズの両親は肌の色で人を差別しない、動揺すらしない、素晴らしい人たちなんですね!…はじめのうちは、そんな風に好意的な解釈もできます。

でも、なんか「あれ?」っという感じもしませんか?

いくら差別主義者じゃないといっても、本当に事前になんの相談もなくて、そこまでスルーできるものなの??

しかも、ローズの家には、黒人奴隷制度時代に逆戻りしたかのような、黒人の使用人がいる、ということも、妙な違和感があります。

表面上は、とても歓迎されているのです。──ローズの父は、オバマ大統領やタイガー・ウッズなどの話題で黒人を褒め称え、パーティーの客からは「今はブラックが流行りだ」「アレも大きんでしょ?」などとセクハラ発言まで飛び出す始末。

ですが、客たちがクリスに浴びせかける褒め言葉は、彼個人ではなく、黒人という人種への賞賛・興味ばかりです。(唯一盲目の元画商を除いて、誰もクリスが写真家で、どんな写真を撮っているのか?など、当たり前に出てきそうな話題について、全然聞いてきません)

クリスいわく、白人たちに囲まれて「まるで動物園の動物のように」見られる。──もっと酷く言うと、自分たちと同じ人格のある1人の人間としてではなく、「黒人種のオス」として扱っているかのよう

──そんな微妙な気持ち悪さが、少しずつ少しずつ、積み重ねられていきます。

(黒人同士なら当たり前に通じるスラングや、あいさつの仕草などが、屋敷にいる黒人たちにはまったく通じない、というのも不気味です。クリス個人の人格と、黒人らしい習慣という、両方のアイデンティティーを剥奪されていく恐怖感があります)


ここからは、映画そのもののストーリーからは脱線しますが、

アメリカはかつて黒人奴隷制度があった国です。現在では人種差別は悪い事とされてますし、黒人のオバマが大統領になることもあれば、黒い肌のバービー人形もあり、スターウォーズにも黒人の登場人物が加わるほどになりました。

人種差別がタブー視されている今のアメリカで、社会的な地位のある人が公の場で差別発言をしたら、大問題になるでしょう。でも、白人の警官が丸腰の黒人を射殺、といった事件はいまだによく聞く話です。

冒頭のシーンで、白人が住む夜の高級住宅地に迷い込んでしまった黒人男性が、スマホで友達と話しながら「怖えよ」と言っていたのが、私にはちょっと驚きでした。「黒人の住むダウンタウンを、旅行者や白人がうろつくと危ない」というのよく聞きますが、その逆もあるんだ!、と思ったからです。

「俺は強盗じゃねえからな」と男は、不安げに独り言をつぶやきます。

日本じゃ最悪でも不審者として通報される程度ですが、そこはアメリカ。ただ家のそばを歩いていただけで、強盗犯に間違われて射殺され、殺した方の白人は正当防衛で無罪になる、なんてこともありえるのです。撃たれたのが黒人ならなおさら。

差別をしてはいけない、という建前はありながら、本能レベルでは違うものとして区別する感覚が依然としてある──あるのに直接口に出してはならないという暗黙のルールが、「臭いものに蓋をする」ように、その場を綺麗事で覆い隠している。でも、蓋の隙間からは、じわじわと悪臭が漏れ出していて…

この映画の中に漂う薄気味悪い空気は、そんな現実にある居心地の悪さを、暗喩しているようにも思えます。


感想を書いているうちに思い出した、不気味な実話を一つ。

余談:18世紀ヨーロッパで皇帝の側近になった黒人貴族、アンゲロ・ゾーリマンの末路

アメリカ南部の綿花畑に大量の黒人奴隷が輸出されていた頃、

仕入れてきた黒人(ムーア人)の中に、容姿や愛嬌のいい子供がいると、アメリカではなく、ヨーロッパで売りに出されることがありました。

“祖国からの旅をヨーロッパで終えた子供たちは、そのほとんどがひどくつらい目に遭ったものの、今さら祖国に戻る手立てもないために、この地で自分を待ち受ける─歪んではいるものの─人間らしくはある付き合いに感謝の気持ちを抱かざるをえなかったに違いない。

アフリカ人たちはヨーロッパの宮廷でどう見られていたのだろうか─これを示すのがバーデンドゥルハラ公の宮廷で上演された1681年のジング・バレーである。(省略)


  ここ アフリカは ムーア人の 生まれたところ
  ナイルの流れ 膨らむところ
  その顔は陽にあかく 焼けてはいるが
  その心根や 善し
  (…)

ムーア人たちの登場
  われら 膚も血も 赤く また黒く
  されど心と情は 雪の白さよ
  いつにてあれ 姿ばかりか 真にあらず
  貝は 白い真珠を 内に秘む
 
──引用元:『西洋珍職業づくし/数奇な稼業の物語』ミヒャエラ・フィーザー”

貴族たちがムーア人(黒人)たちに抱いていたのは、素朴で純真な従僕のイメージでした。その頃のヨーロッパの上流階級では、エキゾチックなものが人々の興味をひき、もてはやされていたのです。

そんなムーア人の従僕の中でも、ひときわ成功を収めたのが、アンゲロ・ゾーリマンです。彼はリヒテンシュタイン侯お気に入りの「ムーア人貴族」で、謁見の際にも軍事行動の際にも、侯のお供をし、きちんと業務に見合った俸給を受け取っていたそうです。

母国語の他に、ドイツ語・イタリア語・フランス語・英語・ラテン語を話し、その立ち居振る舞いも優雅だったため、皇帝ヨーゼフ二世の子息が、彼と腕を組んで散歩するほどだったといいます。

しかし、ショッキングな出来事は、彼の死後に起こります。

ゾーリマンが亡くなると、皇帝は彼を剥製にして、博物標本陳列室に飾ったのです!

いくら同じ言葉で談笑し、肩を並べて歩いても、貴族たちにとっては、「人語を話す賢い珍獣」に過ぎなかったということでしょうか。

ゾーリマンの娘が憤慨しても、その訴えは誰にも聞き入れられませんでした。三年後には、彼の足もとに、剥製の小さな女の子が付け加えられたそうです。